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伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』
第540号 2024.3.26配信分
●日本にも『シルクロード(絹の道)』はあった!?
歴史観をきちんと持たないと未来を見誤る。時代の変化に身を晒
す必要がある。長く生きる。そのことの意味は小さくない。時代は
当然のことのように『技術の進歩』にともない改まる。私の幼少期
(1950年代)は、一語で言って現在とは別世界。目に入るすべてが
異なっていた。
近所を走る鉄道(南武線)にSL(蒸気機関車)の姿を見ている。
電車は2~4両編成で昔ながらの”省線”色(かつては鉄道省が独
立して存在し客車は地味なあづき色に塗られていた)。川崎市営の
自宅から線路は直線距離で2~3km離れていたが、遙か向こうに豆
粒大の車両が見通せた。
昭和の30年代初頭のこの辺りは長閑な田園地帯。人口は目測今の
4分の1だろうか。わが家は50坪ほどの土地に梅、無花果、百日紅
……など多様な植物が植わり、木造平屋建ての目前には一面の田圃
が広がった。二ヶ領用水の支流が流れ、路線バスが走る小学校前の
市道を含め周囲は未舗装。当然のように砂利道だった。
川崎市の人口は150万人を超えたという。政令指定都市に格上げ
されたのは昭和47年(1972年)だが、すると間もなく100万人を突破。
その後も増加が続いて現在に至るのだが、私が移住した昭和30年頃
は20万人余りだったという。
聞き及ぶところでは、川崎市はこの木造住宅を土地込みで払い下
げるつもりだった。実際武蔵新城の駅近く一角はそうなったのだが、
千歳新町一帯は反故とされた。現在は市営の高層アパートに変貌を
遂げ、辺りの景観に往時の面影はない。ここに『実家』が移り、今
は実姉が暮らしている。
余談だが、南武線はもともと鉱工業奥の運搬路だった。積み荷は
奥多摩の上流域で産出された石灰石。秩父セメントが有名だが、そ
こで採掘された原材料を京浜工業地帯に運ぶ。南武線はJR屈指の
黒字路線。今や川崎~立川間を結ぶ通勤通学の足として機能してい
るが、元はと言えば産業路線。人より物資だったわけである。
横浜線も似たような成り立ちがある。同じく山側から東京湾に向
かうルートにあり運ぶのは貨物。積み荷は八王子方面で盛んだった
養蚕業に由来する。養蚕は蛾の幼虫『おカイコさん』を蚕棚で育て、
絹糸の元となる繭玉を作る。桑の葉を食べて育つ蚕(カイコガ)が
作る繭玉は、一本の長い”生糸”からなっている。この高価な天然
素材の素を湯掻いて解いて取り出し、『絹織物』に仕立てる。
古来から技術が伝承され品質とともに高い芸術性を備える日本の
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