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ぜんこうのひとりごと
Vol.0569
遣隋使の凄み
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遣隋使の記録について考えてみたいと思います。
西暦五八八年、中国は、それまでの内乱状態から一転して、軍事超大国・隋が建国されました。そこで日本は西暦六〇〇年に第一回遣隋使を派遣しています。
『隋書』によれば、このときの日本の王は「倭王アメノタラシヒコ」と書かれていると学校では教わります。
このアメノタラシヒコは、原文では「倭王、姓阿毎、字多利思北孤 号阿輩鶏弥、遣使詣闕」と書かれています。
字義通りに読むなら「倭王、姓はアマ、字(あざな)はタリシキコ。号はアハケミ。遣使して宮中に詣でた」となります。
このときの天皇は推古天皇であり、推古天皇は当時は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやのひめのみこ」と呼ばれていて、どう読んでも「タリシキコ」にはなりません。
この時代の政治の実権者は聖徳太子でしたが、聖徳太子という名前は後世の創作で、当時聖徳太子が何と呼ばれていたのかは、いまでは不明です。
一般によく言われる「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」も、ずっと後年の日本書紀にある名前にほかなりません。もしかすると「アマのタリシヒコ」とは、「アマ(天)のタイシ(太子)のヒコ(彦)」であり、聖徳太子のことを指したのかもしれません。
さて、この第一回遣隋使において、謁見の模様を『隋書』は次のように記述しています。
(隋の)高祖が所司(役人)を通じて倭国の風俗を尋ねさせたところ、使者は、
『倭王は天を兄とし、日を弟として、夜明け前に政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる』と述べた。
これを聞いて高祖は、倭国の政治のあり方が道理に外れたものだと納得できず、改めるよう訓令した。
(原文)上令所司訪其風俗 使者言 倭王以天為兄以日為弟 天未明時出聴政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
ここでいう「天を兄とし、日を弟とする(以天為兄以日為弟)」というのは、どういうことでしょうか。これは当時の通訳が、日本の使節が話した日本語を当時の中国語に置き換えたものです。
つまり同じ言葉でも日本語と中国語では意味が異なることあることに注意が必要です。
まず「日を弟とする」ですが、この時代、の大和言葉では、弟(おと)は、男(おと)であり、夫(おと)でもあります。
そして「天を兄とする」もまた、兄は豈(あに)であり、よろこびあふれる楽しい国を意味します。
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